そっと、目を閉じました。

 強い風が草の間を渡り、ざあざあと水流のような音を立てて流れていきます。そのさざめきの合間に、高く澄んだ虫たちの求愛が聞こえます。幼い鳥たちが両親の真似をして起こす小さな羽ばたきが、小さな小さなつむじ風を起こして柔らかな草を巻き上げています。

 世界がさやさやと動くたび、身体いっぱいで生きることを知るのです。肉の薄い、けれど決して貧弱ではありえない二本の足で大地を踏みしめた少年は、乾いた風に短い髪を躍らせました。強い太陽を浴びた髪は色褪せて、色も手触りも産まれたての雛のようです。
 慈しむように、あるいは名残を惜しむようにそっと薄い瞼を開けば、世界は光に溢れていました。夕暮れ時の眩しさにいたいけな瞳が傷つかぬように、けれど光を見過ごさぬように。少年だけが知るそれは特別な方法で、ゆっくりと草原を見渡しました。
 打たれた雨に濡れた幼い草の葉が瑞々しい色を取り戻し、天に向かって懸命に背を伸ばそうとしています。穴倉から這い出した小さな小さな大家族が、久方ぶりのご馳走に大歓声を上げています。
 彼はその透明な青灰色の瞳に映る全ての光景を愛していました。とてもとても愛していました。

 ――――――若葉の匂いが草原に溢れる頃。それは命が満ち満ちる季節です。
 そこかしこで息衝く、草原に生を受けた小さな命たちを祝福するように、少年は目元を柔らかくたわめて優しい微笑みを浮かべました。

 たまご色の髪、日に焼けてすりむけた鼻は丸く、どこか愛嬌がありました。そばかすも染みもない肌は強い日差しで小麦色に輝いて、誰よりも健康そうでした。
 幼年期を少しだけ過ぎたくらいの男の子は決して口数が多いとは言えなかったけれど、その分、青灰色の瞳の奥にさまざまな思いを宿していました。
 年頃よりもこけた頬、肉のないふくらはぎ。骨の浮いた背中は、けれど貧弱ではなく、その年頃にしてはしっかりとついた筋肉は精悍さをうかがわせるものでした。着古した襤褸はあちこちがつぎはぎだらけで、それでも使い込んだもの特有の暖かみがありました。背は高くもなく低くもなく、牛の背中にちょうど頭が隠れてしまいます。
 両親も兄弟もない少年は広大な高原にドーラとクライアとただそれだけで住んでいました。咽喉が渇けばドーラのミルクを絞り、お腹が空けばクライアのミルクからチーズを作って、そうしてドーラとクライアには青々とした草原の若い草を食べさせて、幸せな日々をすごしていました。草原で、少年以上に満ち足りた生き物は決していなかったことでしょう。そうして少年もまた、そのことを理解していたのです。
 少年はとても愛されていました。愛していました。
 草原に住まう全てのものたちは等しく彼の友でした。

 傾き始めた太陽が地平に半分沈むまで、少年は立ったままそれを眺めていました。夕日が、少年の爪先から掌、色の抜けた睫毛、日に焼けて薄くなってしまったたまご色の髪をそれこそ燃えるように染めました。草原を葉っぱの先まで赤く照らし出して、地平の向こうが陽炎のように揺らぐ様は何度見ても飽きることがありません。まるで、太陽の熱さに負けて地面が溶けてしまっているようだ。少年は、日常の不思議をそんな風に考えていました。
 そうして、やがて胸の奥から湧き出てくる衝動を、一人押し殺しているなんてことを一体誰が知っているでしょう。二本の足で大地を踏みしめ、どこまでも欲求の赴くままに駆け抜けて、胸の内、後から後から清水のように沸いては流れ、沸いては流れ出てくるこの感情の正体を暴いてしまいたい。地平の向こうにある謎を解き明かしてみたい。このまま、世界の果てまで駆け出してしまいたい、なんて。
 けれどそれを口にする度に、彼のドーラとクライアと、草原の全ての友たちが行かないでくれと止めるのです。もちろんの事少年も、それが単なる衝動以上のものではないことはちゃんと知っていましたから、夕暮れ、毎度のように訪れる衝動をささやかな想像で慰めて、それでよしとするのです。
 けれど時折、やはり時折。どうしても我慢ができなくなると少年は一人こっそりと、空を舞う友たちに話を聞きに赴くのです。












 太陽はあんなに赤く輝き大地は柔らかく歪んでいるのに、溶けて流れてしまわないのはなぜなんだろう?












 目元に幾筋も皺を刻んだ、古い青鷺は答えます。












 それはね少年、我が友よ。太陽が間違って溶かしても月が冷やしてくれるから、地面は硬いままなのさ












 よく言葉を吟味していれば、それがいかに信憑性に欠けるものであるかは誰にだって分かるはずでした。
 けれど、胸を張って、羽根をぴんと反らして自信たっぷりに言うものですから、大抵の生き物は簡単に信じてしまいます。もちろん、信用される理由はそれだけではなく、古老と呼ばれるほど長く生きている彼に対抗できるほど知識をもった生き物なんて草原にはいやしなかったのです。
 もっとも、知識も多いけれど悪戯心も茶目っ気もたっぷりな青鷺のこと。口から出る全てが真実だなんて、決して思ってはいけないのです。
 けれども草原の生き物はみんな、ちゃんと知っています。彼の言葉の全てがどれほど信憑性に欠けているものだとしても、誰が(ああ、誰が!)真偽を確かめようとなんてするでしょう。この世に満ちた真実なんていうものは青鷺が語るほどにはロマンティックでもなく、また無害なものでもないなんてことは、賢明な草原の生き物たちは、みんな知っていたのです。



 いつか、青鷺は少年に語りました。



 ”あやふや”をもっともらしく告げるには、いつも胸を張ることだ。そうだろう?だって確かめる手段なんてありゃしない。知ろうとするものもいやしない。その言葉の真偽より、彼らが大切にすることはそれがどれほどショッキングかということさ。だから、もしも若い友がいつか”あやふや”を告げなければいけないような場面があれば、その言葉の真偽より、語る相手から目を反らさず、胸を張ることが大切さ。そうすりゃあ、”あやふや”だって真実になるってえもんさ。

 丸い丸いダンゴ虫のような片目を閉じて、開かれたもう片方は悪戯にきらきらと輝いていました。
 少年は青鷺の言うことを考えました。ずっとずっと考えました。それを、嘘というのではないかしら。そんな風にも思ったけれど、それで誰かが不幸になるのかと問われてしまえば首を横に振るしかないのです。
 首を傾げるばかりで少年は決して納得することはありませんでしたが、青鷺の話はいつも荒唐無稽で面白く気が付くといつも夢中になってしまっていました。楽しそうに相槌を打って話に聞き入れば、いつしか大人しく草を食んでいたドーラとクライアも少年の傍らに寄り添って、じっと聞き耳を立てています。
 青鷺もまた、いつまでも理解を示さない少年に気を悪くすることもなく、むしろ嬉々として話したがりの癖をみせました。話し疲れてしまえば、青鷺は少年の瞳の色によく似た青灰の翼を堂々と広げ高い空へと飛び去ってしまいます。長い首を少しも揺るがすことなく、悠々と空を泳ぎ風に乗るその姿はいつ見ても、少年の羨望を誘いました。
 あれほどに美しい生き物を、少年は他に知りません。両手でドーラとクライアの首の後ろを撫でながら、青鷺の羽ばたきを聞きました。

 幸か不幸かと問われたならば、少年は幸福でした。とてもとても幸福でした。
 草原に生きるものたちは、等しく彼の友でした。

 どんなに意地の悪い生き物だって少年が笑えば心から笑みを返すのです。
 どんなに凶暴な生き物も、決して少年を傷つけることはありません。
 草原に生きる生き物全てと等しく語らい、共に過ごし、共に笑い、共に泣く。他に同じ姿をした生き物を二人と知らない少年は、いつしか草原の仔と呼ばれるようになりました。彼はそれを心の底から喜びました。なぜなら、彼にとってそれは真実であったのですから。
 父もなく、母もなく、兄も姉も弟も妹もない彼の家は広大な草原そのもので、家族は草原に住まう全ての生き物たちでした。自分以外の二本足を誰一人知らない少年は、物心付いたときにはもう既に、広い広い草原にたった一人でいたのです。傍らには優しいドーラとクライアが守るように寄り添って。
 



















 ――――――――それはいつの日の話だったのでしょう。
 今はもう、古い話です。古い、古い、話です。




















 それはある、寒い朝。長く伸びた草の葉に朝露が煌いて零れ落ちた瞬間。
 小さな額が飛沫に濡れて、こどもが一人、泣きました。ああんああんと泣きました。
 朝靄に煙る草原はにわかに騒がしくなりました。
 優しいドーラとクライアは朝一番のごちそうで咽喉を潤すその前に、賑やかな主を探しました。聞き覚えのない泣き声です。そう、ドーラはいいました。まるで見たこともない手足です。そう、クライアは言いました。
 五体はつるりとして、身を守る体毛もなく、ましてや雛を守る親すらいないそのこどもはひどく脆弱そうでした。けれどもどこにこんな力が隠されているのかと、ドーラとクライアが驚くほどにこどもはよく啼き、また叫びました。

 なかないで。クライアは鼻先をやわらかな腹に押し付けました。

 なかないで。ドーラは啼き濡れた頬を優しく舐めとりました。

 くすぐったいのか、こどもは身体をよじります。ようやく涙は枯れたようで、ほぅ、と安堵したクライアはドーラを真似て小さなこどもを舐めました。塩気の混じった水分で、クライアの舌が痺れます。こどもは笑い声をあげ、もっともっととねだるのです。
 優しいドーラとクライアは顔を見合わせ微笑みました。
 伸ばされたてのひらは稚く、細められた瞳はいっぱいの親愛で埋め尽くされて。
 ああ、その時の感動(感動!)をなんと表現したらよいのでしょう。
 全ての生き物が等しく持ち合わせている――――けれど必ずしも全員が目覚めるとは限らない――――本能。親がこどもに与える尊い尊い感情を、この時ドーラとクライアは、初めて同時に知ったのです。

















 ――――――――そして小さなこどもはこの日から、草原の仔どもになりました。





























 さあ、お話をしましょう。






















 草原のこどもの話。草原の迷子の話。そうしてそれを送り届けた一羽の白い鴉の話を。
 本来ならば出会うはずのなかったものたちが、導き導かれして、助け、助けられ、そうして紡ぎだしていくもの。















 お話をしましょう。物語を語りましょう。




















 待ち続けるこどもの話。帰りたいと嘆く迷子の話。願いを叶え、見返りを求める鴉の話。見守り続ける養い親たちの愛情に満ち溢れたお話を。そうして、厳しい草原に生きる様々な仲間たちのお話を。
 彼らが、寄り集まって、捩れて、絡まって。時にほつれ、枝分かれをしながらやがて一本の線となる。






















 ――――――――それを、物語と呼ぶのです。






























 
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