首筋を汗が一筋落ちました。少年はぼろぼろの袖口でそれを拭うと、泥の付いた頬を気にすることもなく立ち上がりました。地面からはむっとする熱気が漂って、昼の名残を残しています。駆け抜けた一陣の風が体の火照りを心地良く静め、頬の泥を白く乾かして飛ばしました。
 そろそろ夜の帳が落ちようとする時間。沈みかけた夕日が少年を赤く染めて、その中で彼はいつものように、揺らぐ地平を眺めていました。
 完全に日が落ちきると、少年はようやく後ろを振り向きました。藍色に染まりはじめた周囲では暗い色を見せた草原が宵闇の風に靡いていました。靡いているだけでした。
 少年は、首を傾げて瞬きをします。いつも彼が夕日を眺め終えるまで忠実に足元に寄り添っているドーラとクライアの姿がありません。珍しいこともあるものだ、と辺りを見回しましたが見つけることができません。
 不安になった少年は大きく名前を呼びました。

 「ドーラ、クライア。おいで、おいで」

 視界の端で大きなかたまりが二つ、並んで立ち上がりました。ほっとして、けれどいつまでもそれ以上動こうとしないことに不審を抱いて再度、彼は呼びかけます。

 「ドーラ、クライア?」

 焼け付くような昼が終わり、切ない夕暮れが通り過ぎて、辺りには薄暗い夜の帳が下りています。昼の名残の熱風が彼方から草の香りを運びます。獣の匂いを運びます。それは嗅ぎ慣れた仲間たちの匂いです。養い親の匂いです。双子の優しい養い親はのそりと首だけ少年に向けて、来て下さい、と困ったように告げました。

 「一体どうしたというんだい?」

 草を掻き分けて歩きながら問い掛ける草原の仔どもを目で呼びながら、彼らは地面に鼻先をつけてしきりにふんふんと匂いを嗅いでいます。

 「小さな迷子がいるのです」
 「帰りたいと泣くのです」

 眼を丸くした少年は、気遣い半分好奇心半分に迷子の姿を探しました。
 養い親の鼻先に掌を寄せ、そっと草を掻き分けると、地面の上で弱々しく光る小さなかたまりがありました。
 それは最初、まるで珍しいいしころのように見えました。けれど、五つあるぎざぎざのうちの二つを、手のように折りたたんで、中央を隠してしくしくと鳴き声をたてているところを見ると、いしころなんかではありえないことが分かります。両手ですっぽりと包んでしまえるほど小さなそれを、少年はそっと掬い上げました。美しい清水を扱うように優しく柔らかに抱きました。

 「こんばんは。ちいさな可愛い迷子さん。こんな綺麗な星空にどうして君は泣くのかな?」
 目線の高さに手のひらを持ち上げて囁くように告げてみれば、びっくりして涙も止まったのでしょうか。小さな迷子は泣き濡れて赤くなってしまっている瞳をまんまるにして、少年をじっと見つめました。そうして、彼の言葉をゆっくりと吟味して――――そうして、やがてまた悲しくなってしまったのでしょう。再び涙を溜めながら、それでも迷子は言いました。
 「わたしは落ちてしまいました。もう帰らなければいけないのに。その方法がありません。もう帰らなければいけないのに。その力がありません」

 なおもさめざめと泣く迷い子に少年と双子の養い親は困ったように顔を見合わせて考えました。

 「迷子さん、あなたのお家はどこですか?よければぼくが送ってあげましょう」
 「私の家は向こうです」
 「草の波の向こう側?それとも海の果てだろうか」
 「いいえ、そんな近くではありません。それならば私は帰ることができるでしょう。たとえこの体が光を失ってしまっても、自らの力で飛ぶでしょう。けれど私の家は草を越え、海も山も砂漠をも、大きく越えたところにあるのです」

 少年は、困って眉を八の形に曲げました。なぜなら小さな少年は草原以外の大きな世界を一度たりとその目にしたことがなかったのです。迷子の言っていることは、全く少年の理解を超えました。緩く首を左右に振って、

 「それではぼくは送れない。ぼくの足では彼方に辿り着く前に擦り切れて折れてしまうだろう。ドーラ、クライア。できるかい」
 「わたしたちにもできません」
 「そんなに遠い場所ならば、蹄が欠けて割れて砕けてしまうでしょう」

 迷子はとうとう大きな声で泣きました。涙は少年の掌に清水のように沸きました。このままでは自分の涙の海に溺れて息ができなくなってしまいます。慌てた少年は迷子の額に優しいキスを一つ落とすと囁くように告げました。

 「ぼくは送れはしないけれど、きみを送り届ける誰かを代わりに探してあげましょう。だからもう、泣くのはお止し。迷子さん」
 「本当ですか?本当ですか?ああ、それならお願いします。願う以外にもはや私にできることはないのです」

 喜びに体を輝かせた迷子に、その時だけ安らぎを与えられたことに少年は僅かな満足を感じました。けれど、養い親が言いました。

 「いけません」
 「それは無理な話です」

 少年は常にない養い親の態度に目を瞠ってしまいます。

 「一体何がいけないと言うんだい?」

 養い親は続けます。

 「あなたやわたしたちの足でも辿り着けないそんな場所に、一体誰が連れて行けるというのです」
 「そしてもし、存在したとするとしても、一体誰がそんな困難を引き受けるというのです」

 そして優しいドーラとクライアは愛するこどものために一緒に口を揃えました。

 「安請け合いはおやめなさい」
 「傷つくのはあなたです」

 少年は思わずてのひらの中の迷子とドーラとクライアを交互に見比べてしまいます。眼前で交わされる口論にはらはらとしながらも、それでも耳を塞ぐこともなく一心に口を閉ざしていた迷子は少年と視線をあわせると、しょんぼりと萎れてしまいました。いじらしい姿に少年の心は痛みます。

 「それならば」

 大切な、ドーラとクライアの言いたいことも分かります。いつだって正しかった養い親のそれが今回だけ間違っているとは思えません。けれど、少年の小さなてのひらにすっぽりと納まってしまうほどの稚さの小さな迷子を見捨てることも、また間違っているのではないでしょうか。
 少年は、順番にドーラ、クライア、そして小さな迷子に視線を動かすとにっこりと笑って告げました。それならば。

 「小さな可愛い迷子さん。僕は君のために、君を送り届ける誰かを探してあげましょう。けれど、どうしても見つからない時は、無責任なようだけれど勘弁してはもらえないか。僕は愛しい大切な養い親を悲しませることはしたくない。かと言って一度拾い上げたものを何もせずに捨て去ることもしたくない。わがままで、とてもとても身勝手と自分でもよく分かってはいるけれど、僕にはこれ以上のことを提案することはできないみたいだ」

 迷子は見放された心境に僅かに目元を潤ませました。けれど――――――このこどもは探してくれると言っている。まだ見捨てないと言っている。精一杯のことをその小さなてのひらに引き受けようとしてくれる。そう、考え直して笑いました。

 「とんでもない。私の家は遠い遠いところにあるのですから、見つからなくてもそれは仕方がありません。それよりも通りすがりの私のために、こんなに考えてくれてありがとう」

 少年は健気な迷子に困ったように笑いました。

 「まだ僕は何もしていないよ。小さな可愛い迷子さん。けれど、そうだね迷子さん。もしも――――これは嫌な想像だけれど考えないわけにはいかないから――――もしも見つからなかったら、その時は僕らと一緒に住まないか?僕の優しい養い親はきっと君にも暖かいから」
 「それならば願ってもないことです。もしも、私が帰ることができなかったら――――それはとてもとても不吉な想像ですけれど――――その時はぜひお願いします」

 そして少年は大切なドーラとクライアに――――どこか罰が悪そうに――――それでもどこか誇らしげに、小さな胸を張りました。

 「ドーラ、クライア、すまないね。でも僕はもう決めたから。僕のこのちいさな足でどこまで行けるか分からないけれど、この迷子を送り届ける誰かまでは、この子の家の道程よりもきっと近いはずだから」

 養い親たちはお互いの顔を見合わせました。風が吹けば容易くなびくこのこどもは、その実芯は柳のようにしなやかに折れない強さがあるのです。
 強情なこどもは柔らかな笑顔で自らの意思を通そうと、じっと親たちを見詰めます。

 「分かりました。お好きになさい私の仔」
 「それがあなたの信念ならば私たちがどうして止めることができるでしょう」

 ありがとう。満面に笑みを湛えながら、草原のこどもは言いました。



 「これで心残りはなくなった。さあ、僕と一緒に旅立とう」



 少年は高らかに告げました。
 ああ。ああけれど、どうやって探せばいいのでしょう。小さな小さな迷子の家は、草原も海も砂漠をも、あるいは氷山の向こうでさえも大きく越えたところにあるのです。そんなところに連れて行ってくれる誰かをどうしたら見つけることができるでしょう。不安にさざめく迷い子に、少年は朗らかに告げました。

 「道筋は風に任せよう。ほうら、見てごらん迷子さん。草が靡いていくだろう。白く、白くまるで一本の線のように。あれが風の通り道さ。白い波を標に、月を明りに、瞬く星の海を伴奏に、いざ行かん、当て処ない旅へ!」






















  
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