長い長い旅になるのでしょう。ドーラは考えました。



 辛い辛い旅になるのでしょう。クライアは考えました。




 けれどその心境を表に出すこともなく二頭は黙々と少年の後ろに続きました。少年と、そのてのひらに抱かれた小さな迷子の後に続きました。
 さあっと細い細い音を立てて風が草を渡っていきました。中天には月が煌めき、星が冴え冴えと輝いて、どこまでも遠く草原を果てまで青く照らしました。その中を二頭の牛と、少年と、てのひらに抱かれた小さな迷子は歩くのです。
 牛の足を優しく覆いつくす程度の背丈の草は、柔らかく肌を擽り、まるで上等の毛布に包まれているようでした。

 「ああ、ああ、凄い!うねる草原のなんと美しいこと!天に輝く仲間たちのなんと誇らしげなこと!」

 小さな迷子は少年の手の中から伸び上がるようにして、しきりに感嘆しています。自分が褒められたときのように、少年は胸をはりました。空いた手の片方を伸ばして草原の果てを指差します。

 「向こうに水辺があるだろう。あそこはぼくらの飲み水を一手に賄っているのだよ。夜にだけ動く仲間たちがきっとあの側にいるだろうから、よければ行ってみないかい?」
 「もちろんです。あなたの素敵なお仲間をぜひ紹介してください」

 期待に胸を膨らませた迷子の表情が、ふと悩ましげに曇ります。そのまま少年を見上げると、

 「けれどあんなに小さい水辺に着くには一体どれほどの時が必要でしょう。私にはとても想像がつきません」
 「迷子さん、確かにあなたの大きさならばあの場所に辿り着くまでに夜が明けてまた暮れるだろう。けれどぼくの足ならば月が軽く傾くまでに容易く辿り着けるんだ」

 その返事に安堵したのか、迷子は再びきょろきょろと忙しなく左右を見渡しました。なんとかして遠くを見ようと伸び上がる迷子がてのひらから零れ落ちそうになるのを何度も窘めながら、少年は尋ねました。

 「どこまで行ってもあまり変わりはしないだろうに、そんなに珍しい景色かい?」
 「もちろん!もちろんその通りです。私が上にいた頃は、下はあまりに小さくて、胡麻粒よりも見難くて、それよりは私のたくさんの兄弟たちがよほど大きく見えたものでした。それが今ではどうでしょう!私が下に落ちたばかりでは、私は草むらよりも低く、栗鼠よりも小さく、自分では満足に動くこともできずに泣いているだけで。あなたに抱きあげられて、こうして外の世界、草むらよりも高くから下を見渡してすら、この世界は広く広くて、本当に果てなどないのではないかと錯覚してしまうようです」
 「少し不思議なのだけど、君の言い方だとこの世界にはまるで果てというものがあるようだ。ぼくにはどんなにどんなに凝らしてみても、地平以外は見えないけれど、それは果てとは違うだろう。それとも果てが見えないのはぼくのこの青灰の眼が曇ってしまっているせいだろうか」
 「いいえ、いいえとんでもない。私が果てを知っているのは――――そう、ただ知っているからです」

 くすくすと、少年は忍び笑いを洩らします。

 「それでは説明になっていない」
 「それは確かにそうですね。ああ、でもなんと説明すればいいのでしょうか」
 「言葉に迷っているのならばじっくり考えてくれて構わない。夜は長く、朝は長く、昼なんてなお長いのだから。時間は君が望むだけ、この世界に広がっている」
 「そんなに悩んでしまっては、私は悩みの泉に溺れて息が詰まってしまいます」

 少年に返す冗談のような調子で迷子が語りました。それが少し大人びた様をしていたように見えて、さきほどの眼が溶けるほど泣いていた様を知っている少年としては落差がおかしくてたまりません。ですがそれを表に出してしまっては迷子が傷ついてしまうことなどわかりきっていたことですから、必死で吹き出すまいと努めました。
 迷子はそんな少年の様子に気付いているのかいないのか(きっと全く気付いていないのでしょう)考え考えしながら注意深く言葉を選びました。

 「例えば、あそこに生えている大木に蟻が登っているでしょう?空を飛ぶ鳥(ああ、あの美しい青灰の鳥は何という名前なのでしょう!)には見えている大木の果て(それは枝の末端であり、根の潜る境目であったりするのでしょうけれど)。それを幹を這う蟻んこは一目で見つけることができるでしょうか。いいえ、決して見つけることはできないでしょう。彼には自分が登るその大木が大きな一つの世界であって、彼からは果てを見つけるのは途方もない仕事です。けれど鳥の目からならば果ては疑いもないことです。私が知っているのは、それと同じことなのです」
 「それはとても哲学的だ、と言ってもいいのだろうか」
 「いいえ、哲学などではありません。そんな高尚なものではありません。私が知っているのは、言っているのは、目で見たこと、肌で感じたこと、そのままのただ事実であるというだけです。それが私に体験することができるただ事実であるというだけです」
 「なるほど。完全に分かったとは言えないけれど、君の考えの根の部分は正しくぼくに伝わった。それでは君が鳥だとして(あの美しい鳥はぼくの古い友の一人なんだ)君にも、あの鳥にだってちゃんと存在するように見渡すことができない果てはかつても存在したのだろうか」
 「ええ、それはもちろんその通りです。私の知っている果てはどこまでも暗く黒く深くて、まるで吸い込まれて迷ってしまうかと錯覚するほど。私はそんなとき、仲間たちに気付いてもらえるように、強く強く光るのです。もしかしたらあなただって気付いたのかもしれません」
 「では時折強く輝いているきみの仲間たちはその時淋しがっているのだろうか」
 「そんな仲間もいるでしょう。けれど純粋に美しさを追求している気位の高い仲間もいるのです」
 「それは新しい発見だ。今度友達に会ったなら一番に教えてあげなければ。とても博識な友だけれどきっと考えた事だってないだろうから」

 楽しそうな少年を見上げて、充足感を感じた迷子は再び迷子は夜の光景を眺めました。いくつかのことを考えて口数を減らした少年は、誰にともなく呟くように(と、言ってもその質問に答えることができるのは迷子以外いるはずもなかったのですが)尋ねました。

 「月はこんなに冴え冴えと世界を照らしているのに、どうして地面は凍らないのだろう」

 迷子は片目だけ大きく瞠ると、えへん、咳払いをしました。

 「月が地面を凍らせても太陽が溶かしてくれるのです。それが太古の昔から連綿と続いているのです。ですから、地面は穴があかないほど固くもなく、どろどろに溶け出すくらい柔らかくもなく、どこまでもあやふやなままなのですよ」

 少年はぱちくりと瞬きをしました。そしてふっと息を吐き出すように笑うと、優しく迷子を撫でました。

 「とても勉強になった、なるほどどうもありがとう。ところで小さな可愛い迷子さん、あなたのようにいつまでも色褪せず輝くものを胸に秘めている友をぼくは知っているのだけれど、きっときみととても気が合うと思うんだ」
 「おやまあ、それは光栄です。ぜひお会いしてお話したいものですね」

 どこか共犯者のようなさざめきを交わし合って、二人はどちらからともなく夜を眺めました。残るのは、少年が草を踏む音、ドーラとクライアが枯れた枝を掻き分ける音、時折風が渡り梢を揺らし、草むらを走り抜ける涼しげなそれ。以外は本当にただ静寂だけがありました。獣の息遣いさえ聞こえないただ静謐がありました。
 青い夜はどこまでも伸びて、静けさと優しさと、恐ろしさが奇妙に同居しているようでした。ふるり。寒さにか、あるいは得体の知れない予感にか、からだを駆け抜けるものを感じた迷子はふと落ち着かない視線を止めました。ともすれば茂みに紛れて見落としてしまいそうなそれは、風景に馴染んでごく当然のように地面の上にありました。

 「黒い何かが見えるのです。一体あれはなんですか?」

 草むらの中に倒れている黒いものが、月明かりを受けてうっすらと浮かび上がります。よくよく目を凝らしてみれば、かたまりはどこもかしこも乾いたように赤い色をしていました。いつの間にやら傍らに添ったクライアが、少年の襤褸布で作った服(それは大きな布の真ん中に穴をあけただけの、遠い遠い国でポンチョと呼ばれているものによく似ているものなのですが)の裾を咥えて引きます。ドーラが少年を押し戻そうとそっと頭を押し付けます。

 「いけません。よくない匂いが強くします」
 「いけません。危ない獣が近寄ります」

 不安にかられて少年を見上げると、彼は僅かに瞑目して、その表情には幼いながらどこか陰りがありました。稚い唇には、しかし一片の祈りもなく、じっと赤黒いかたまりに視線を向けるだけでした。けれど迷子に気が付くと、ふ、と優しく笑いかけ、さりげなく進路を逸らしました。その時に、少年が巧妙に迷子の視界からかたまりを隠すように抱いている掌の位置を移動させていることに、気付きながらも迷子は指摘できませんでした。

 「一体あれはなんですか?」

 少年と牛たちの行動からとてもよくないものだとはおぼろげながら分かるのですが、それでも迷子の好奇心はそれでは納得できません。少年は抑揚なく答えます。

 「いつか友だった誰かだよ」

 それ以上を聞くことは、どうしてか迷子にはできませんでした。例えば、友ならばなぜ様子を窺いにいかないのか、とか。その友とは誰なのか、とか。いつかとは、一体いつのことなのか、とか。聞くことはたくさんあったはずなのに、どうしても。
 少年はそんな迷子に気付くこともなく(おそらくは気付いているのでしょうけれど)歩き続けました。声には何かを切り捨てるような調子があり、前だけを向く眼差しが再びかたまりに向けられることは最早ありません。どうしてでしょう、それが。それが、えもいわれぬほど哀しい出来事のように思われて。迷子の胸は重い鉛でも飲み込んだように苦しいくらいに詰まりました。心の優しい少年が、できたばかりの友人がなんだか全く知らない人になってしまったようで、迷子は無性に悲しくなりました。項垂れた迷子を気遣って、少年はてのひらを目の高さに持ってきました。

 「すまないね。少し怯えさせてしまったかい?」

 ふるり。迷子は首を振ります。つぶらな瞳からは今にも涙が零れそうで、それでも健気に耐えています。

 「私が、私が恐ろしいのは、あなたが知らない人に見えてしまったからなのです。どんなに寂しい暗闇よりも、どんなに凶悪な獣よりも、私にはそれが恐ろしい。恐ろしく、嘆かわしくてたまらないのです」
 「今のぼくもさっきのぼくも、変わらずにぼくのままなのだけど。迷子さん、ぼくたちはつい少し前に初めて出会ったばかりだから知らない人なのは仕方ない。けれど、どうか信じて欲しい。ぼくがぼくである限り、決して友に危害は加えない」
 「ええ、きっとあなたは守るでしょう。約束を貫いてくれるでしょう。つい少し前に初めて出会った私ですが、それだけのことは分かります。あなたはつい少し前に出会ったばかりの私のためにこうして骨を折ってくれている。だからこそ分からないのです。かつて友だった誰かを、どうしてあなたが通り過ぎてしまったのかが」
 「迷子さん、それを気にすることはない。なぜならきみは生きている。こうしてぼくと話している。ならばどんな出来事があろうともぼくはきみを見捨てない」

 だから心配することはない、そういいかけた少年がその台詞を中途で止めてその瞳を険しくしました。迷子をさっと後ろ手に隠すと、「誰だい?」と用心深く誰何しました。
 突然背中に隠された小さな迷子はさらに後ろの牛たちが油断なく頭を突き出している姿にただ首を傾げました。ただならぬ雰囲気にどうしたのかと尋ねることさえ憚られます。
 がさり。その時、闇が動きます。夜の闖入者は足音も隠さずにやってきました。
 
 「おやおやこれは草原の仔ども。こんな夜更けにどうしたね」

 背の高い色褪せた草を掻き分けて、見事な黄金の鬣があらわれました。引き締まった筋肉。堂々とした体躯。すらりと伸びた両手足は威厳に満ちて、黄金の瞳が夜に爛々と輝いています。ああ、その美しさと言ったら!少年の背中を上って、首を壁にしてこっそりと前を覗いていた迷子が思わず感嘆の息を吐いてしまうほど。

 「これはこれは。ノマドのおじさん。いいえ、ちょっと友人から用事を言い使っているのです。おじさんこそ、こんなに月が昇っているのに家にも帰らずなぜここに?」
 「ああ、なんと哀しいことだろう!わしだって眠れるものなら眠りたい。それこそ腹を一杯に満たして満足を抱えて眠りたい。けれど、けれどな少年よ、わしは今腹が減ってたまらんのだよ。なあ草原の仔ども、我が友よ。この可哀想なわしに免じて食べ物を譲ってはもらえんか」
 「それはそれはお辛いでしょう。心中お察しいたします。けれどぼくの財産と言えば身に纏うこのぼろ布だけ。おじさんの期待に添うことはどうもできそうにありません」
 「おうおうこれは哀しいことだ。だがな優しい少年よ、わしはお前の財産なんぞちっとも欲しいとは思わんさ。ただね草原の少年よ、主の後ろの牛二頭、一口齧らせてもらえんか」
 「いえいえそれはできません。大事なドーラとクライアはぼくの所有物ではないのです。齧るなんてもってのほか。一口たりといけません」
 「おうおうそれは冷たいことだ。わしがこんなに空腹なのに、草原の友は見捨てるか。なんと不幸なことだろう!素晴らしい馳走を目の前に指を咥えねばならんのか!」

 ライオンはおいおいと嘆きます。吼え猛る声が夜のしじまに響きます。うおーんうおーんと響きます。優しいドーラとクライアは怯えて地面に伏せました。少年の後ろに隠れた迷子は身を縮ませて慌てて暖かい背中に張り付きます。よく見れば猛るライオンの肉は削げてあばら骨が浮いています。頬はこけて、瞳はどこか濁って茫洋としながらも小狡い色を浮かべていました。百獣の王といえども獣。獣といえども王。どちらもが正しくあてはまる哀れな王が、油断なく少年を窺っています。

 「おじさんどうか泣かないで。ぼくまで悲しくなってしまう」

 柔らかな眉毛を八の字に曲げて、少年がライオンを慰めます。するとそれを待っていたのか彼の目が獰猛にきらりと光りました。

 「ほうほうそれでは少年よ。お主が可哀想なこのわしを救ってくれるというのかね。ふむふむ後ろの牛たちよりは僅かに劣るが悪くない。まだまだ若いその肉はきっと柔らかく甘いだろう」
 「いえいえそれもできません。おじさんがぼくを食べたならドーラとクライアは泣くでしょう。ぼくは大切な養い親を悲しませることはしたくない」
 「ではお主はわしに飢えて死ねと?ああ、ついに草原の友からすら見捨てられてしまったか。なんと可哀想なわしなのだ!」

 血走った眼がぎらぎらと燃えて少年を睨みつけるので、迷子とドーラとクライアはますます震え上がります。けれどもさすがは親でしょう。二頭の優しい養い親はわが子を守ろうとするように、ライオンの前へと進み出ます。
 親たちの動きを察したのか、少年が片手でそれを制します。首はライオンに向けたまま、にっこりと彼に告げました。

 「いえいえぼくは見捨てません。一度は友と呼ばれた身。どうして見捨てることがあるでしょう。二頭の優しい養い親もこのぼくの若い柔らかい肉だってあなたに差し上げられないけれど、王に朗報を差し上げましょう」
 「ほうほう朗報とはこれいかに」
 「ここから少し南に下った背の高い木があるあたり。そこに誰かのお食事の新しいものがありました。さきほど通り過ぎたばかりです。おそらくは肉も柔らかく血も甘い。まだその場にあるでしょう。けれど少しお急ぎを。ご馳走を見つけたハイエナやハゲタカたちに獲られぬうちに。よければ行ってみてください」

 ライオンは喜色を満面にして、老いた尻尾を振りました。目の端には皺が寄り、彼は親愛をあらわにしました。

 「それは良いことを教わった。この礼は後ほどきちんとお返ししよう。それではわしは行くとしようか。草原の友よいざさらば」
 「お役に立てて光栄です。いえいえ礼などいいのです。草原の王よ、またいつか。それまでどうかお祈りを。永遠の放浪者に幸あらんことを」

 お別れはそれだけですみました。王は上機嫌で駆けました。迷子はそれを見送りながら、心ならずも見惚れました。命の縮む心地だったとはいえ、のびのびと躍動する肉体は美しく、靡く鬣はまるで黄金色の炎のようで、しなやかな四肢は惚れ惚れするほど。そうして風のように堂々と草原を駆ける様からは威厳を感じさせました。今ですらこれほどの美しさなのだから、全盛期の張りのある背中、美しい鬣が風に靡いて疾走する姿はどれほど見ごたえのあったことでしょう。
 かつてにうっとりと心を馳せながら、迷子は王を見送りました。いつまでもずっと見送りました。

 「ああ」

 と、その時突然、何かを悔やむように少年は吐息を洩らしました。よもや何か間違いがあったのではないかと、迷子は彼を見上げます。彼は面目なさそうに、たまご色の頭を掻きました。

 「申し訳ない、迷子さん。きみを連れて帰る誰かのことを、ノマドのおじさんに尋ねるつもりですっかり忘れてしまっていたよ。今からでは追いつけないし、食事に夢中のおじさんを引き止められるとも思えない。さて、どうやって尋ねたものか。きみさえ差し支えないのなら、無理は承知の上だけれど今から彼を追いかけようか」

 仰天したのは迷子です。

 「追いかけるなんてとんでもない!さきほど食べられかけたことをあなたはもうお忘れですか、そんな危険な振る舞いをわざわざ見過ごすわけには行きません!」
 「しかしせっかく会った友だから」
 「いくらあなたの友だとしても、あなたを齧ろうとした彼です。みすみす戻らせるわけにはいきません。十二分に差し支えますからどうか先へ進んでください」

 剣幕に驚いて、少年は引き返そうとしていた足を思わず止めてしまいました。その機を逃さず、迷子は畳み掛けました。

 「私なら全く心配要りません。私が帰ることよりもあなたが危険に遭わない方が何千何万も大切です。どうぞその身を大切に。次の機会を待ちましょう。ええ、私のことなら平気です。夜は長く、朝は長く、昼だってなお長いのです。いずれ求める誰かに出会うでしょう。ですからどうぞ進みましょう」
 「きみがそのように言うのならぼくは一向に構わない。それでは先に進むとしようか」

 青い草原の果てを眺めた少年の、小さな口元がほころびました。何をそう笑うのかと、迷子は訝しげにみつめます。気付いて、少年はゆっくりと歩きながら語りました。

 「おかしいね、と思ったんだよ」
 「あなたが何を面白がるのか、私にはさっぱり分かりません」
 「ノマドのおじさんのことだけれどね。彼はきみが思うほど恐ろしいものではないんだよ」
 「とんでもない!あなたは食べられるところだったのに、まだそんなことを言うのですか!」
 「あれはいつものことだから。食べる食べると言いながら、彼はただの一度だってぼくに手を出したことはないんだよ。かと言って、もちろん油断は禁物だけど。ぼくと彼とは友だけど、馴れ合うというのとは違うから」

 迷子はじっと考えました。小さな頭で考えました。やがて結論が出たとみえ、聡明な瞳で見上げます。

 「互いに狙い、狙われて、騙し騙されしたとしても、それでもふたりは友ですか?」
 「小さな可愛い迷子さん、たとえ相食らいあうときですら、ぼくらが友でなかったことなんて、ただの一度もないんだよ」

 迷子は途方に暮れました。少年のてのひらに満たない小さな迷子には、まだ彼のいうことの半分だって分かりません。

 「あなたは友を裏切らない。ええ、それは確かなことでしょう。だからこそ私は聞いてみたい。かつて友だっただれかのことをライオンに教えたのはなぜですか」

 少年はどう話すべきか逡巡しているようでした。瞳を伏せて考え込んで、やがて瞼を上げました。

 「ぼくは一番初めにこういった。”いつか友だった誰か”だと。――――――――それが答えの全てだよ」

 哀しみはありませんでした。苦しみもありませんでした。何かが麻痺してしまったような、諦観がそこにありました。ぞっとするほどの厳しさと一緒にありました。草原を駆け抜けた風に飛ばされないように、少年のてのひらに必死にしがみ付きながら、迷子はそれでもどこか空恐ろしさを感じていました。
 風に混じった血臭が、ことが行われていることを小さな迷子に教えます。ぶるり。大きく震えると、目尻に涙が溜まります。少年が寂しげに笑ったことに、伏せた迷子は気付かないまま、そっとドーラの背中に乗せられるまでじっと涙をこらえていました。

 「――――?」
 「しばらくここにいて欲しい。どうやらノマドのおじさんにつられたようだ。ぼくもお腹が空いてきた。何か食べられるものを探してこよう。ドーラ、クライア、迷子さんを頼んだよ」

 後ろも振り返らずに、少年は素早く去りました。全身を緊張させてありとあらゆる危険に備えている背中は確かに草原で生きるいきものを彷彿とさせました。優しげな彼からはまるで想像もつかないような、俊敏でしなやかな姿でした。強かに生きる彼は、確かに草原の仔どもでした。正しく、獣の仔どもだったのです。
 迷子はドーラの背中に乗ったまま、ぽつり、独り言のように呟きました。

 「今は友ではない誰かだから、彼はあんなにも容易く捨ててしまったのでしょうか」

 ドーラとクライアの耳が、ぴくりと動きました。二頭はその場で姿勢を低くして、ブッシュの間に身を隠しました。いつも二頭を守っている養い仔は今はいません。彼にたくされた小さな迷子を守り通さねばなりません。
 項垂れている迷子と視線を合わせることなく、ドーラとクライアは告げました。







 「あなたは知らなくてはなりません」





















 「――――――――ここは草原なのです」


























  
inserted by FC2 system