水辺に辿り着くと、少年はソーセージの木の実で作った水筒に茶色い水を入れました。自分で一口飲み込むと減った分を注ぎ足します。ざらりとした舌触り。土の香りが鼻腔を擽るのもいつものこと。水の部分だけを注意深く啜ると、口の中に残った砂粒を慣れた仕草で吐き出しました。嵩の減った水溜りは、もう底が目に見えるほどしかありません。乾季が長引いているのです。少年は懸念しました。できる限り早く迷子を家に帰さなければなりません。きっとあの稚い迷い子は、長く続く厳しい暑さに耐え切れはしないでしょうから。
 腰に吊るされた水筒のもう片方にはドーラとクライアのミルクが入っています。発酵してすっかり固くなったミルクを少し食べると空腹によるきりきりとした痛みも、やややわらいだようでした。少年は一息つくと自分が来た方角を窺いました。大切な養い親と出会ったばかりの迷子をブッシュに残しているのです。急いで戻らなければなりません。けれど少年には一つ心配がありました。
 「迷子さんは一体何を食べるのだろう」

 ノマドのおじさんのように、肉食だったら少し困る。大して困ってもいない表情で少年は首を傾げました。しかしさきほどの怯えた仕草を見る限りその可能性は低いだろう、そう少年はみています。
 するとドーラとクライアのように青々とした草を食べたりするのでしょうか。それを否定する材料はあまりないように思えましたが、道中いかにもおいしそうな茂みを通りかかっても迷子は全く興味を示しません。草では口に合わないのかもしれません。もしかすると味覚は少年に近いのかも。それならば食べ物を探すのは少し手間がかかるかもしれません。
 そんなことをつらつらと考えながら、少年はあたりを探しました。以前の雨季に、膨大な量の雨が流れ込んで出来た水溜りが、今少年の目の前に広がっています。濁った黄土色の水は夜の光に穏やかに反射してきらきらと光っていました。巨大な――――それでも少し前と比べるとずいぶんと嵩の減ってしまった――――泉はいずれ乾いて消えるのでしょう。流れることのない水は澱んでいましたけれど、それでも草原の生き物にとってはかけがえのない水場でした。その周辺には少しでも恩恵に与ろうとでもいうように、小さなブッシュがいくつもいくつも生えていました。
 ふとブッシュの近くにあった岩の間に目を凝らすと、小指の先ほどの青い草の実が鈴なりになっているのが分かりました。甘くておいしい草の実です。生で食べるのもいいし、天日で乾かしておけば素敵な保存食になります。少年はほっとしました。自分には少し物足りないけれどこれなら迷子の小さな口にも合うでしょう。
 房を傷つけないように、実だけを慎重に摘み取って予備にと持っておいた空の袋へと落とします。やがて、小さな袋の中は小さな青い草の実でいっぱいに膨れ上がりました。
 戻ろうとして振り向くと夜目にうっすらと大きな影が浮かび上がりました。ぎょっとすることもなく――――それがとても見慣れた姿だったので、少年は近付きました。にこやかに夜の挨拶をすると、もさもさと草を食んでいた影たちは、ゆっくりと顔を上げました。

 「お食事ですか?キボコの奥さん、旦那さん。今晩はとてもいい月夜ですね」

 ぽこんと出ているくりくりとしたつぶらな瞳をしぱしぱと瞬かせて、巨体が揺れて動きました。相手が誰かを認識すると、彼らは歯を見せて笑いました。

 「あらあらあら、草原の息仔さんじゃあありませんか。あなたも今からお食事かしら」
 「おやおやおや、お前、まさかワタシらじゃあるまいし、そんなことはないだろう。ふむふむふむ、いや少年、まだまだ答えてはいけないよ。どうれ、ワタシが当ててあげよう」

 そういうと、カバの旦那さんは唸り始めました。うーんうーんと唸りました。

 「あらあらあら、息仔さん、あの人のことは気にしないでちょうだいね。ええ、私たちなら今ちょうど夫婦旅行の最中なのよ。あら、だってまあ、ワタシらの住んでいたところじゃあ、もう水場が無くなってしまったのだもの。それならばいっそのこと、と、この人と思い立ってねえ、銀婚旅行というのかしら。出発することに決めたのよ。まあ、帰る場所もない旅行だけれど、この人と一緒なら、それも悪くはないかしらと思ってねえ。
 まあまあまあ、ワタシったら、なにを湿っぽいこと言っているのかしら。いえいえいえ、もう連れ合いとも長いことですし、ワタシはそれでも構わないと思っているのよ。それに旅は順調だし。そうねえ、幸せと言えば幸せねえ。やだわあ、おばさんが恥ずかしいこと言っちゃってまあ」

 頬を赤らめながら奥さんは恥らって鳴きました。ヴォー、ヴォー、と鳴きました。

 「恥ずかしいなんてとんでもない。まだまだ若年のぼくなんかにはとても素敵なお話です。どうせ年を取るならばお二人のようになりたいものです」
 「うふふ、さすがに草原の仔どもは紳士的ね。ご両親の教育がよろしいのでしょうねえ。そういえばドーラさんとクライアさんはお元気かしら」
 「ええ、ドーラもクライアもとっても元気です。最近は危険なことも少ないですし、ぼくは安心しているのです。ただ、乾季が長いのが、心配と言えば心配でしょうか」

 キボコの奥さんは、そうねえ、とでもいうように深い息を吐きました。しみじみと述懐する姿には、緊張感がありません。

 「それも毎年のことだから、今更と言えば今更ねえ。でも今年は酷いようよ。いつもならもう雨季の真っ最中でしょうに、まだ雨が降らないものだからなみなみと水を湛えていた南の蜜岩の水場も、今ではもう土ばかり。すっかり干上がってしまったわ。二・三日前までなら、水浴びくらいはできたのに」

 頬に手を当ててでもいるように悩ましく溜息を吐く奥さんは、まるで夕食の献立を何にしようかとでも案じているように見えました。少年は難しい顔で親指を唇に当てました。

 「蜜岩が。あそこはこの辺りではいっとう大きな水場だったのに。南ではもうそれほど乾いてしまっているのですか。ならばぼくらも見習って、北を目指すほかないのでしょうね」
 「そうねえ、それが一番ねえ。あなた方はワタシらほど水が必要じゃないけれど、全くいらないことはないのだもの。ほら、そこにも水辺はあるけれどもうすぐ干上がってしまいそうだし、ワタシたちももう少し旅行を続けることになりそうねえ」

 そういえば、と続けて奥さんが喋り出すのを遮って、旦那さんが叫びました。

 「わかったぞ!」

 ヴォッヴォッヴォッ、と興奮しながら少年に詰め寄る旦那さんに、奥さんは「まあなんですか、お行儀の悪い」と旦那さんを窘めます。

 「息仔さんだって困っていらっしゃるでしょう。もう、あなたって人は仕方のない人ですねえ」
 「お前はちょっと黙ってなさい。ところで草原の少年よ、お主は夜の水浴びに来たのだろう!昼間はワシラがつかっとり、入るに入れんだろうからな」

 胸を張って、さあどうだと詰め寄る旦那さんに、少年は小さく苦笑します。自分たちを基準に考えた彼の勘違いが少しおかしかったのです。

 「いえいえ旦那さん違います。実は今、友人から用を言い使っておりまして、まだまだ草原に慣れないその子のために食事を用意しているところなのです」

 そうして少年は、キボコの夫婦に手早く事情を説明しました。少年の要領のいい説明が終わるまで、奥さんと旦那さんは好奇心に出っ張った目をきらきらと輝かせて、じっと聞き耳を立てていました。

 「ふむふむふむ!それは興味深いことだ!!ワタシはこの年になるまで珍しいものや奇妙な出来事をたんと聞いてきたと思ったが、こんなおかしな話はとんと聞いたこともない!!」
 「まあまあまあ、あなたご本人を目の前にして奇妙だの珍妙だの、ちょっと失礼じゃあありませんか。ごめんなさいねえ息仔さん。うちの人はあんまり礼儀を知らなくて」

 じろり。睨まれた旦那さんが萎縮して小さくなっていきます。めったに怒ったことのない優しい養い親たちの、めったにない姿を思い出してしまって、それが妙にキボコの奥さんの姿に重なってしまって思わず感心してしまいました。自分に責任の一端があるような気がしてしまって、少年は慌てて言いました。

 「奥さんどうぞお気遣いなく。当のぼくこそとっても奇妙な話だと心に思ってはいるのです。お二方が驚かれるのも無理ないことと思います」

 あくまで紳士的な少年に、奥さんは感動したようでした。うる、と瞳を滲ませるので少年は仰天してしまいます。

 「どうかしましたか、キボコの奥さん。ぼくは何か気に障ることをあなたにしてしまったのでしょうか」

 奥さんは目元をしぱつかせると、慌てて首を振りました。

 「いいええ、違いますよ息仔さん。ただワタシらにもあなたのような息子がいたらねえと、年甲斐もなく思っちまって。いまさら言ってみたところでどうにもなりはしないのにねえ」

 はう。吐いたため息は憂いに満ちて、十数年しか生きていない少年にはその重みは分かりません。どのような言葉をかけるべきか、悩んで――――結局何もかけることはできませんでした。

 「いいじゃないか、お前。そのおかげでワタシらはこうして旅ができている。こどもなんかがいた日には身が重くて気軽に動くこともできやしない。それにな奥さん、ワタシらにはこんな風に案じてくれる草原の仔どももいるだろう」
 「その通りですよ、キボコの奥さん。ぼくでは力不足やも知れませんが、これでも草原の仔どもです。何かあればきっとお力になりますよ。だからどうぞ、そんなに悲しい顔をしないで下さいませんか。ぼくの胸まで張り裂けそうになってしまう」

 必死で慰める旦那さんと少年の心の篭った言葉たちに、奥さんの胸も晴れたのか、しきりにあらあらあらと言いながら照れ隠しをしています。

 「そうやって言ってもらえるのは嬉しいものねえ。それで息仔さん、あなたは今迷子さんを送り届けることが出来る誰かを探していると仰るのね」
 「そうなんです。さきほどノマドのおじさんにお会いしたんですが、うっかり聞きそびれてしまいまして。迷子さんがすっかり怯えるものだから追いかけることもできなくて。もし、そんな誰かをご存知ならばよければ教えては頂けませんか?」

 丁寧に頼む少年に、キボコの夫婦は揃って顔を見合わせました。「まあまあまあ、ノマドさんにお会いになったの。あの方もお年ですのに、お元気そうで何よりねえ」と、そんなことをしみじみと呟きながら、彼らの一直線に並んだ鼻と目と耳とが、相手の眼の中に対称に映り込みました。
 少年の目にも、彼らが困っていることが分かって、どうしようかと首を傾げてしまいます。何かを思い立ったかのようにそわそわと旦那さんが自分の巨体を揺らします。
 
 「ほら、なんと言ったかな。お主の友に情報通の長老がおったんじゃあないか?」

 少年はしばし考えました。情報通、と言われて思い浮かぶのは一つの顔しかありません。

 「もしや旦那さんが仰っているのは、青鷺の古老のことでしょうか」

 旦那さんは膝を打ちます。

 「おう!まさにその通りよ!たとえワタシらが知らないことであろうとも、彼ならば知らないなんてことはありはしない。なあ奥さん、そうだろう?」
 「そうですねえ、あの人が分からないことならば、たとえ草原の誰だって、分かりはしないでしょうねえ」

 少年は、納得したように頷きました。

 「確かに言われてみればその通り。しかしヘロンの古老は気まぐれです。彼がどこを飛んでいるのかなんてこと、それこそきっと誰にも分からないことです」

 キボコの夫婦は少年の物言いに、思わず納得してしまいました。実は先ほど飛んでいる姿を垣間見たのですけれど、それは夫婦には言わないでおきました。少年だって、あれから青鷺がどこへ行ったのかなんて分かりようもなかったのですから。

 「言われて見ればその通り。うむむ、まずは古老を見つけるところからはじめなければならんのか。お主もよくよく厄介ごとを引き受ける性質なことだなあ」
 「まあまあまあ、なんて失礼なことをいうんでしょうねこの人は。息仔さん、どうぞ気にしないでちょうだいね。それがあなたの好ましいところなのだから、しっかりと力になってあげてくださいな。ワタシらも及ばずながら力になってみせますからねえ」

 ありがとうございます。心から礼を言って腰を折ると、ふと少年は空を見上げました。

 「ああ、月がもうあんなに傾いている。ずいぶん時間を過ごしてしまったようです。ドーラとクライアとまだ草原に慣れない迷子さんをぼくは残してきているのです。そろそろ戻らなければなりません」

 心底名残惜しそうに、夫婦は尻尾を振りました。

 「おやおやおや、夜は長いものなのに、もう別れねばならんのか」
 「まあまあまあ、あなた引き止めてはだめですよ。息仔さんは大変なお願いをその身に負ってらっしゃるのですから。どうぞ頑張って下さいね」
 「迷子が家に帰れることを心から祈っておるからなあ」

 立ち去ろうと背中を見せた少年を、旦那さんが呼び止めました。なんだろうと疑問を感じながら振り向くと、罰の悪そうな旦那さんが、じろりと奥さんに睨まれています。その瞳は「だって、お前」と言い訳をしているようでした。言い出すべきか、どうしようか迷って――――そうやって時間を潰すことが少年にとってどれほど迷惑か(たとえ少年自身はそう思っていなくても)気付いたようでした。旦那さんはのそりと少年に近寄って、上目遣いで見上げました。

 「お主が忙しいことは十分承知の上なんだが、主の貴重な時間を少々ワシラにわけてもらえんか」
 「あらあらあら、この人ったら」
 「しかしのう、奥さんや」

 少年はもじもじと言い出しかねている夫婦を見て、意図を察したのか、やがてゆっくりと微笑みました。遠慮がちに近付いてくる旦那さんの顔を優しい手付きで撫でました。
 こどものいない奥さんの年老いた顔を撫でました。ゆっくりゆっくり撫でました。小さな乾いた掌に、流れた水気が付きました。それに気付かないふりをして少年は彼らを優しく抱きました。
 月がゆっくり傾きました。少年はまだ帰りません。
 痺れを切らした養い親と、その背に乗った小さな迷子がのんびりと草原を歩いてくるまで、それは続けられました。


 少年はキボコの夫婦と別れました。去り際に、少年は彼らの額にキスを贈りました。

 「また会う日まで」

 そう言って、精一杯の気持ちを込めて、仔どものキスを贈りました。奥さんは「まあまあまあ、年を取ると涙もろくなっていけないわねえ」、そう言いながら笑いました。旦那さんは「おやおやおや、こんな扱いをされるのもたまには悪くないものだなあ」、目元に皺を寄せて笑いました。
 去って行く夫婦の後姿を、少年はじっと見つめていました。背後に、何かを言いたそうな迷子の視線を感じていながらも、彼らの後姿が見えなくなるまで、じっと見送って動きませんでした。

 「遅くなってすまないね。ずいぶん待たせてしまっただろう。ドーラ、クライア、ありがとう」
 「中々戻ってこないので、きっと誰か友達と会っているのだと思いました」
 「そうするとあなたはいつだって夜明けまで戻らないのですから」

 手の施しようがない、と嘆息する(それでもそこには、仕方ないね、というような苦笑交じりの諦めが見て取れましたけれど)ドーラとクライアを迷子が不思議そうに見上げます。そのぽかんと開いた小さな口に、少年は青い草の実を一つ放り込みました。
 途端、目を白黒させて咳き込むのを、少年は指の腹で優しく撫でて迷子が落ち着くまで待ちました。

 「すまないね、驚かせてしまったようだ。そろそろ落ち着いただろうか」
 咳き込んで涙を溜めながら必死で喘いでいた迷子は、息が落ち着いたころに頷きました。  「……ええ、ちょっとびっくりしてしまいました。一体これはなんですか?」

 少年は眉を跳ね上げました。

 「おや、これなら君の口に合うと思ったのだけれど、お気に召さなかったかな」
 「それではこれは食べ物ですか。驚いて、すぐに飲み込んでしまったのです」

 だから味わう暇などなかったのだと、そう続ける迷子に少年は少し罰の悪い顔をしました。間違いなく、びっくりさせることを目的に迷子の口に放り込んだのは彼自身であったのですから。
 次いでくすくすと笑うと、腰の袋からもう一つ青い草の実を迷子の目の前に差し出しました。

 「ほら、今度はよく見てごらん。これが今君が口にしたものさ」

 光沢のある皮はつるりと月光に光っていて、瑞々しく固そうでした。少年の小指の先ほどの大きさは、迷子の口には少し大きいかもしれません。それでもその草の実からは、若い、甘い香りが漂いました。少年は手づから迷子の小さな口へと草の実を放り込みました。
 迷子の口が、大きな実を一生懸命飲み込もうとしているのを微笑ましく見守って、完全に飲み下したのを確認してから少年ははじめて話しかけました。

 「どうだい?」
 「驚きです!草の実がこんなに甘いなんて!こんなに美しいなんて!まるで宝石のようではありませんか!いいえ、いいえ、そんなものよりもなお瑞々しく芳しい。私は今、はじめてそれを知りました!!」

 少年は頬を染める迷子に、ふと微笑みました。もう一粒差し出してみれば迷子は嬉々として小さな口をあけました。(その光景はまるで雛鳥に餌を与える鳥のようだと、こっそりと養い親たちは思いました。)一生懸命に咀嚼する小さな姿を見守りながら、少年は袋の紐を締めました。

 「感激屋さん、君は本当に素敵だね。ぼくまで感動してしまいそうだ。けれど今日はもうここまでだよ」

 すると迷子が沈みます。その瞳はありありと「まだ食べたいのに」と訴えていました。育ち盛り(なのでしょう。おそらく、言動から察するに)の迷子の食欲に苦笑すると、少年は迷子をてのひらに抱きました。そして水辺の側によると、迷子をそこに映しました。

 「舌を出して見てごらん」

 言われた通りに出すと、迷子の舌は真っ青に染まっていました。驚くべき変化に、迷子が涙目で少年に詰め寄ります。

 「私は一体どうしてしまったのでしょう。病気になってしまったのでしょうか。こんなこと、初めてで私には全く分かりません。もしかして私はもう家に帰ることもできないのでしょうか」
 「いいや、そんなことはない。この青い草の実でほんの少し舌先が染まっているだけだ。食べ過ぎるとひりひりとしてしまうから、適量以上は禁物なんだよ。初めからそれを言おうと思ったのに君は少し早とちりをしすぎるようだね」

 呆れたのでもなく、怒っているのでもなく、少年があまりに楽しそうだったので迷子はさすがに恨みがましく少年をみてしまいました。

 「私を騙したのですか」
 「騙すなんてとんでもない。ぼくは最初から本当のことだけを言っていたよ」

 もちろん、騙されたと思い込んでいる迷子が釈然としようはずもありません。憮然として――――それでも少年が「特別だよ」と機嫌直しに差し出した草の実を口に入れると、たちまちに機嫌は直ってしまいました。そうするうちに、迷子はふと気付いたようです。

 「あなたは食べないのですか?さきほどから私はあなたが何かを口にしたところを見た覚えがありません」

 本当は、迷子と離れていた間に簡単な食事は終えていたのですが、少年はそう答えようとして――――悪戯ぽく笑いかけました。

 「そうだね、じゃあぼくも食事にしようかな。ぼくの食事は、この、なみなみと輝く水と、そこに映るすべてのものだよ」
 
 きょとん。迷子が言っている意味をはかりかねたように、大きな瞳を揺らめかせました。くすり、少年はそれに笑って、生温い水溜りに、若いてのひらを片方だけ差し込みました。
 少年は水を掬い取ると、もう片方の手のひらに乗った迷子にそれをそっと差し出して、中に映りこんだものを示しました。

 「ほら、ぼくは月を捕まえた」

 ぱちり。瞬きする迷子に少し笑うと、少年はそれを呷ります。
 空手を広げると、彼の瞳が悪戯ぽく輝きました。

 「そして飲み干すこともできるんだよ」

 ぽかん。口を開けたまま唖然としている迷子は、空になった少年の掌と、空に浮かぶ月と、水溜りを交互にしながら、ことり、首を傾げました。

 「もしも私が帰ったら、いつかあなたに飲まれるでしょうか」

 てっきり怒り出すかと思ったのに、面食らった少年に構わず、ひどく真摯に迷子は続けました。
 
 「私はそれだって構いません。遠い遠い空の上、あなたが私を忘れてもあなたが人知れず掌に星を掴まえていたならば、小さな地上を見下ろすたびにそれすらも甘い記憶となるでしょう」
 「おや、ぼくは友を忘れてしまうような薄情な男ではないつもりだけれど、君にはそんな風にみえるのだろうか」
 「人は忘れる生き物です。いかにあなたがそれを望まなくともいずれ記憶は風化するでしょう。そして忘れ行くでしょう。それは仕方のないことです」
 「君は忘れて欲しいのだろうか」
 
 迷子はそっと首を振りました。どうしたら分かってもらえるのでしょう。いいえ、迷子には少年が言葉の意味を十分に理解していることなんてちゃんと分かっていたのです。それでもなお迷子に尋ねようとする少年の意図こそが迷子には分からなかったのです。

 「――――――――私は……」

 なんと答えるべきだったのでしょう。何を答えるべきだったのでしょう。迷子は正しい言葉を選びたくて仕方ありませんでした。けれど、一体正しい言葉とはどんな言葉なのでしょう。小さな迷子には分からないことばかりで、言葉は詰まるばかりで、つぶらな瞳でただ少年を見上げることしか出来ませんでした。
 少年はやがて迷子から視線を空へと映しました。月は早、地平に隠れようと姿を半分隠していました。後から、眩いばかりの光が生れ始めているのを感じながら、少年は呟きました。


















 「ああ――――――――朝が来る」





















 
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